年表

– 1840: オスカル=クロード・モネがパリにて誕生(11月14日)。

– 1845年頃: モネ一家がル・アーヴルに転居。

– 1856~58年頃: 戯画(カリカチュア)で最初の人気を博す。モネはウジェーヌ・ブーダンと出会い、絵画の手ほどきを受ける。

– 1858: ル・アーヴル市主催の展覧会に絵画作品1点を出品。

– 1859~60年: 家族の援助を受けて、パリに出る。アルマン・ゴチエを介してコンスタン・トロワイヨンや写実主義者らと知り合う。アカデミー・シュイスに通い、ここでカミーユ・ピサロと出会う。

– 1861~62年: アルジェリアにて兵役に就く。ル・アーヴルに戻り、秋頃ヨハン・ヨンキントと出会う。

– 1862~63年: パリにてシャルル・グレールのアトリエに通い、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、そしてアルフレッド・シスレーと親交を持つ。

– 1864: バジールとともにオンフルールに滞在。ブーダンとヨンキントが合流。家族との不和。

– 1865: サロン・ド・パリに2点の風景画を初出品、最初の成功を博す。『草上の昼食』の制作に取り掛かり、年末までにほぼ完成させる。この作品を見たギュスターヴ・クールベが絶賛。

– 1866: 『草上の昼食』を未完のままにする。とくにエミール・ゾラが高く評価したカミーユの絵でサロン・ド・パリにて成功を収める。エドゥアール・マネと出会う。セーヴルに住んで『庭の女たち』の制作を始める。その後オンフルールに転居。経済問題を抱える。

– 1867: ヴィスコンティ通り20番地のバジールのもとで暮らす。サロンに落選する。サンタドレスに滞在。当時の恋人であり後に妻となるカミーユ・ドンシューが第一子ジャンを出産。

– 1868: サロンに1点が入選する。経済問題を抱えており、ル・アーヴルの愛好家ゴーディベール夫妻の援助を受ける。ル・アーヴル国際海洋展覧会にて銀賞受賞(10月)。

– 1869: サロンに落選。ブージヴァル近郊のサン=ミシェルに滞在し、ルノワールとともに制作活動を行う。またピサロとともにルーヴシエンヌで制作する。

– 1870: サロンに落選。カミーユ・ドンシューと結婚。普仏戦争勃発後、兵役を避けるため、夏の間に家族とともにイギリスに渡る。

– 1870~71年: ロンドン滞在中にピサロと再会し、画商のポール・デュラン=リュエルと出会う。その後オランダのザーンダムに移る。 フランスに戻り、1871年末にアルジャントゥイユに転居。

– 1872: ルーアンとル・アーヴルに滞在。アルジャントゥイユでも制作活動を行う。

– 1874: 第1回印象派展が開催される。モネは「印象派」という名の由来となった『印象・日の出』などを出品。

– 1876: 第2回印象派展に参加し、数点のアルジャントゥイユの風景画や『ラ・ジャポネーズ』を出品。エルネスト・オシュデとその妻アリスのためにモンジュロンにあるロッタンブール城の内装を手がける。

– 1877: サン=ラザール駅をテーマにした作品を制作、そのうち数点をこの年開催された第3回印象派展に出品。

– 1878: この年の初めにアルジャントゥイユからの転居を余儀なくされ、パリのエダンブール通り26番地に仮住まいする。ここで2人目の息子ミシェルが誕生。その後ヴェトゥイユに転居。

– 1879: 後にアンデパンダン展と呼ばれることになる第4回印象派展に29点を出品(オペラ通り28番地、4月10日~5月11日)。 妻カミーユの死去(9月5日)。

– 1880: 1月初旬に猛烈な大解氷があり、これをモチーフにした何点もの力強い作品を制作。

– 1881: 2月17日以降、デュラン=リュエルがモネの作品を定期的に買い付ける。

– 1882: ディエップにて数日過ごした後、プールヴィルの旅籠「ア・ラ・ルノメ・デ・ガレット」に住まう(2月15日~4月中旬)。

– 1883: ル・アーヴルに数日、その後エトルタ(ホテル・ブランケ)に滞在(1月末~2月21日)。

– 1884: 北イタリアのリヴィエラ海岸にあるボルディゲーラ、その後南フランスのマントンに滞在(1月~4月中旬)。

– 1885: 画商ジョルジュ・プティの主催する国際展覧会に初めて出品(5月8日、セーズ通り8番地)。

– 1886: エトルタに戻り(2月)、ブリュッセルで開催される20人展に10点を出品(2月)。
– ニューヨークで開催されるパリの印象派画家の油彩・パステル画展にデュラン=リュエルがモネの作品を約40点出品(4月~5月)。

– 1887: プティ画廊の第6回国際展覧会に出品(5月8日~6月
日)。

– ロンドンに短期滞在(8月)。ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーを介して英国芸術家王立協会の展覧会に出品(11月)。

– 1888: アンティーブとジュアン=レ=パンにて制作活動(1月中旬~5月初旬)。アンティーブにある芸術家向け宿屋のシャトー・ド・ラ・ピネードには画家のアンリ・アルピニーと同時期に住んだ。ここを勧めたのは、カンヌで出会ったモーパッサンである。

– 1889: 美術批評家のギュスターヴ・ジェフロワがモネ、ルイ・ミュラー、フランツ・ジュルダンを何日かクルーズ渓谷に連れていき、フレスリーヌにて詩人モーリス・ロリナと会う(2月後半)。 この地にほれ込んだモネが、ここを再び訪れる(3月~5月中旬)。

– プティ画廊にてモネ・ロダン2人展(6月)。

– パリ万国博覧会に際して5月に開催されたフランス芸術100年展にモネの作品3点がマネの『オランピア』とともに出品される。モネはこの作品をルーヴル美術館に贈呈するための基金を募り、熱心なキャンペーンの末、1890年、国はこれをリュクサンブール美術館に収蔵することを受け入れる。

– 1890: ジヴェルニーに邸宅を購入し、新しいアトリエを整え、庭を美しく作り上げる(秋)。

– 1891: デュラン=リュエル画廊におけるクロード・モネ新作展にて連作『積みわら』15点が展示される(5月4日~16日)。

– 1892: デュラン=リュエル画廊に『ポプラ並木の連作』15点を展示(2月29日~3月10日)。

– ルーアンに滞在して連作『ルーアン大聖堂』を制作(2月~4月中旬)。

– アリス・オシュデと結婚(7月)(エルネスト・オシュデは1891年3月に死去)。

– パリ市役所の内装担当に落選(11月)。

– 1893: ルーアンにて再び連作『ルーアン大聖堂』を制作(2月~4月中旬)。

– ジヴェルニーの家の南側の土地を購入(2月5日)、有名な睡蓮の池の掘削を行い、「水の庭」を整備。

– 1894: 11月にはポール・セザンヌがジヴェルニーを訪れ、モネが彼をジェフロワ、ロダン、ジョルジュ・クレマンソーに引き合わせる(11月28日)。

– 1895: ノルウェー旅行(1月末~4月初旬)。

– デュラン=リュエルがモネの個展を開催(5月10日~31日)、20点の『ルーアン大聖堂』連作などを展示。

– 1896: プールヴィルおよびヴァランジュヴィルにて制作活動(2月中旬~4月)。

– 1897: 再び同じ村にて制作活動(1月中旬~3月)。

– 1898: ジョルジュ・プティがモネの新作展を開催(6月1日から)、『セーヌ河の朝』などを展示。

– 1899: ロンドン滞在(秋)。

– 1900: 再びロンドン滞在(2月)。

– パリのデュラン=リュエル画廊にて約10点の『睡蓮の池』をはじめとする新作を展示(11月22日~12月15日)。

– 1901: これと同じ展覧会をデュラン=リュエルがニューヨークにて開催(2月)。

– ロンドン滞在(2月~4月)。

– 1902: モネが1900年の夏に制作した6点の『ヴェトゥイユの風景』が、ベルネーム=ジュヌ画廊(ヴェトゥイユ)のピサロ新作およびモネ新連作展において公開される(2月20日~28日)。

– 1904: 37点の『ロンドンのテムズ川』連作(1900年から1904年)がデュラン=リュエル画廊の新しい展覧会のテーマとなる(5月9日~6月4日)。

– 1908: ヴェネツィア滞在(10月~12月)。

– 1909: デュラン=リュエル画廊にて『睡蓮、水の風景』と題した展覧会開催(5月6日~6月5日、48点)。

– モネが2回目のヴェネツィア旅行を行ったようだ(複数の研究者は異議を唱えている)。

– 1911年-妻アリスの死去(5月19日)。

– 1912: ベルネーム=ジュヌ画廊が29点の『ヴェネツィアの風景』を展示(5月28日~6月8日)。

– 1914: 長男ジャン(1897年6月にブランシュ・オシュデと結婚)が死去(2月10日)。

– 大作『睡蓮』の制作のための特別なアトリエの建築(1916年に完成)。

– 1922: 1918年の休戦協定成立の翌日にモネがクレマンソーに対して約束したとおり『睡蓮』を国に寄贈する契約に署名(4月12日)。

– 1923: 白内障の手術を受ける。1908年から視力の衰えを感じていたが、病名が診断されたのは1912であった。

– 1924: デュラン=リュエルが連作『睡蓮』をニューヨークで展示(2月)。

– 1926: ジヴェルニーにてヴュイヤールとルーセルの訪問を受ける(6月8日)。
86歳で死去(12月5日)。

– 1927: 生前モネが指定していたとおり、チュイルリー公園のオランジュリー美術館に『睡蓮』の大作が展示される(5月17日)。